お芝居つれづれときどき音楽

歌舞伎のこと、音楽のこと、いろんなこと、気の向くままによしなしごとを。

2023年3月歌舞伎座1部「花の御所始末」感想というか個人的な解釈というか。

「花の御所始末」、わっるい幸四郎さん祭りでしたね。もうバキバキに性癖に刺さりまくりましたよ。千穐楽も終わったのでネタバレありで感想というか妄言を。

花の御所始末ポスター

リチャード3世を読んだことがないのですが、義教が野心を持つに至る経緯について妄想が膨らみまして…

(1)自分は次男で将軍になれないことが不満

(2)母親は長男より自分を可愛がっている→将軍になれる可能性ワンチャンありそう

の2点、これは作中で描かれているところですが、(1)に至るまでにも、満家がそれとなくずっと焚きつけてきたのだろうなと。

例えば、「あなたは素晴らしい才覚をお持ちだ。ひょっとすると義嗣様よりも優秀かもしれませんな。御次男というだけで家督を継げないのは何とも勿体ない」とか(妄想)。

事あるごとに褒められ、いつの間にかその気になり、それが元々の自分の意志のようになる。満家はその野心を支えてくれる共謀者にすり替わっているが、そもそもの首謀者は・・・。

で、
(2)母親は長男より自分を可愛がっている
について、義教は特に疑問を持たないんですよね。何だかわからないけど母様は兄上より僕の方を可愛がる。ラッキー、くらいな感じか。まあたぶん、理由なく兄弟差がつくことは現実にもある。理由がなければ一人目可愛くない症候群か?とか思ってました。

ところが今回愛情の差には理由があって、母様は満家と浮気していて、義教の父親は満家・・・えーっ!!

てっきり、義嗣(兄)は笛のうまい妾の子かと思ったのですが、違うのですね。そっちかい。母親は浮気のほうが本気になって、浮気相手との子の方が可愛くなってしまったのか。で、恐らく満家は野心を持って浮気しているよねと…

義教の父親は満家、ということだけが妹から明かされるのですが、だとすると、だとするとですよ。全ての発端は満家で、義教は満家を頼もしい家臣と見ていたけれど、実は義教は満家の野心の駒でしかなかった、という構図が一挙に見えてきて、ぞっとするわけです。

義教自身はここで、自分が義満の子ではなく本来は正当な後継者ではないこと、母が自分を愛するのは、浮気相手の方を愛して父を愛していなかったからかもしれないこと、満家の手のひらに転がされていたこと、などに思い至って、満家を憎んだのではないかと。

(見てる側的には、義教と左馬之助の顔が似ていることもこれで説明がつく…!などと思ったりw)

ちなみに、義教が義満の方をころそうと思い始めるのは、「ご病気がいついつまでに快癒します」と陰陽師に言われるあたりで義教が密かに険しい表情をしているので、その頃から頭にあったのではないかと。「え、回復しちゃうの、そろそろ家督継げると思ってたのに」ってところでしょうか…怖い怖い。

その後、長男廃嫡作戦の頼みの綱の母様が亡くなってしまう(理由は不明)のと、奥さん亡くして妾をあてがわれた義満が元気百倍!まだまだ長生きするぞ!って感じになってしまい、自分が家督継げるか怪しくなってくるので、これはやっぱ弟ころして父もころすしかないかーってなるのでしょうね。お父さんの方は別に長男廃嫡したいわけではなくて、改心するなら家督継がせるも選択肢にあったのでしょう。

まだ、義満は自分の父親だと素直に信じているときに考えて実行に移すのですから怖いですよね。いや怖いんだけど格好いいのよねなぜか…欲しいものを力づくで獲っていく幸四郎義教…。左馬之助と入江ペアに色々言いかけるとこも、やなやつーなのになんか刺さるのよ性癖に。何ですかあれは。

で、文字通り父親を倒して自分が天下を獲れた義教の前に黒幕のように登場する満家。実の父だと知られたことを知っても動揺も見せない、むしろ不敵な感じすらする。義教は自分がトップをもぎ取ったと思った次の瞬間に、あなたは私の手のひらの上です、と言われたようなものでは?この時にはもう、将軍職を無事手中に収めたら、満家をころす可能性も芽生えていた気がします。

で、無事将軍になれて天下が義教のものになって、当然のように満家を遠ざけるようになる。なぜ遠ざける、良心が咎めるからだと満家は言いすがるけれど、違う気がして。満家が近くにいると自分はまだ操り人形のような気がしてしまうからではないか。満家の意見を聞きたくないのもそれが理由。そして何よりも、自分の実の父親だから。家臣が実の父親だという事実を認めたくなくて、遠ざけるのではないか。

でもまだころしてなかったのが意外と言えば意外で、そこには親子の情というよりはもともと信頼していた(父親のだけど)家臣だった、というのもあったのかなとか。でも満家が言っちゃいけないことを言う、「あなたは親殺しではない」と。いやもうそれ言っちゃったら「なら親殺しになってやるよ!!!」ってなっちゃうじゃーん。って見てて思いましたよね。もうさあ。破滅の道まっしぐらよ、満家さあん…。

ここのやり取りで少し不思議だったのが左馬之助の自死を「たった一人の息子を失った」と表現するんですよね。あれ、義教も「実ハ」息子だよね?なぜ「たった一人」なの?と疑問符。あれはわざとなのかなあ。あくまで臣下の分をわきまえてますよ、だからまたお傍につかせてください、という意味?でも最終的に義教を「我が子じゃ我が子じゃ」ってバラすから、意味なくなっちゃうんですけどね…不思議でした。

で、実の父親も倒(ころ)して、陰で糸を引く人物もおらず本当の意味で自分が天下を獲る。けれど亡霊が出てきて責め苛みやつれていく義教。あれは何なのですかね、それこそ良心の咎めなのか、自分の血縁を経ってきてしまったことへの不安なのか、それとも本当に亡霊が怨念たっぷりに出てきただけ(だけ?)なのか。

まあそんなやつれた幸四郎さんも格好いいので良き…

でとち狂ったせいなのか、都合のいいことを言ってくれる陰陽師も「嘘つきー!」ってころしちゃう、そこまではともかくも、あの絶対いうこと聞くマンの家臣二人までころしちゃうの。なんでや。抜け穴作ってくれたし逃げるときも必要やろ、あの二人。

という疑問をふっかけたまま、あ、そういえばこの人いたわ!!って人を出すのうますぎますね。目を切られて目が開いたってのもうまい台詞すぎるでしょー。傘取る前に声で「愛之助さんや!冒頭の家臣!!!」ってわかっちゃうのですが。はー、あの時から恨みを募らせて一揆の頭領ですよ、胸熱。

で、愛之助さんに持ってかれそうになるんですが、そこはさすが義教。しにざまがすごい!!!あんなに乱心していたのに、俺は将軍義教だあああああってしんでいく。なんだよ、わるいやつなのに最期まで格好いいとかずるいわ。まあそんな幸四郎さんが好きだよ!

っていうお芝居でした。はー、もっかい見たかったですわ。えぐいけど好きすぎる。

取っ散らかった感想を失礼いたしました。

ホットクックを買いました(玉ねぎの丸ごとスープ煮)

ホットクックを買ったので、料理メモを書いておこうと思います。

まずは手順が簡単でかつ普段作らなそうなものを、と思い付属メニュー集から「玉ねぎの丸ごとスープ煮」を選択。
f:id:andantepresto:20201214201157j:plain

玉ねぎは3.5個しかなかったので水を350に減らしましたが、スープの水分なので減らさなくても良かったかもしれません。
コンソメは固形1個を瓶で砕いて顆粒に。
しめじはなかったのでミックスビーンズに変更。
f:id:andantepresto:20201214195842j:plain

スイッチオンで1時間待つだけ。
f:id:andantepresto:20201214200057j:plain

時間はかかりますが、別のことをしていたので気づいたらできあがりの音声。
ちなみに加熱中も「加熱しています」とか時々喋っていました笑。

加熱が終わったら塩コショウして味を整えます。
さくっと完成です。
f:id:andantepresto:20201214200429j:plain

丸のままの玉ねぎにしっかり火が通っています。
焦げる心配もしなくてよいし、とても簡単です。
1回目としては大成功。
味付けはコンソメを減らしすぎたかな?1.5個くらいでも良かったかもしれません。

わりとうまく行ったので、次回はメインになるおかずを作ってみたいと思います。

ラ・ボエーム@新国立劇場オペラパレス

プッチーニラ・ボエームを見てきました。

f:id:andantepresto:20200126205134j:plain

https://www.nntt.jac.go.jp/opera/laboheme/

1幕は軽快な、ボヘミアンたちの掛け合い重唱が楽しいですね。この演目で最も有名であろうアリア「私の名前はミミ」はそこまでピンとこなかったのですが、3幕でミミが別れを告げるアリア「Donde lieta…」が素晴らしかったです。3幕から4幕のミミもとてもよかった。しっかりとした重い声・声量を持ったニーノ・マチャイゼが、病気で身体が弱ったミミという役柄どおりに声を抑えてか細く歌うとき、このミミのアリアはそういう声の人のためにあるのだなと感じました。

f:id:andantepresto:20200126205228j:plain

オペラ全編を通して「私の名前はミミ」のテーマが随所に流れるのも「プッチーニ節」を感じて、ああ、やはり好きだなぁと。

ところで「私の名前はミミ」の歌詞、なぜか今まで気づかなかったのですが、「詩というものが私を喜ばせてくれる」って、詩人のルドルフォに「あなたが好き…」と言っているようなものだったのだなと。

 4幕はコッリーネの「古い外套よ」も、同じ部屋にいるミミとルドルフォを決して無視しない、歌いあげすぎない様がとてもよかったです。ただ今回のコッリーネ、哲学者のわりに1~2幕あたりの振舞いはちょっと落ち着きがない気もしました。もう少し他のメンバーと違う空気を纏っていてほしいところ。

ともあれ、3、4幕のすばらしさと切なさ、本当に幸せな時間でした。実は数年前に同じ演出版を見ていましたし、悲劇だし、今回見なくてもよいかなと思っていたのですが、行ってみてよかったです。また聴きたいですね。

20190928坂東玉三郎 講演とワークショップ@武蔵野音大

というわけで行って来ました。音楽に関連するお話を沢山伺えたので、自己研鑽のために備忘録。メモをほぼ取っていないので不正確です、ご容赦ください。

玉三郎さんは白シャツに上下黒系のスーツ姿。1部2部構成で、1部は玉三郎さんの講義(対談ではなくおひとりで)、2部は声楽の生徒さん(と言ってもほとんどが卒業生さん)がオペラのワンシーンを演じて玉三郎さんが指導するのを聴講する形式。


f:id:andantepresto:20190930213202j:image

1部 講義『歌と心』

『歌と心』というタイトルでの講義。「こんにちは」と仰って、きっちり会場から返事が返ってくるのが大学だなあという印象。高校生らしき制服の方も。「こんにちは」「こんばんは」の混ざる返答に「こんばんはでしたね」と言い直す玉三郎さん。

「話が飛ぶので皆さんの頭で繋げて聴いてくださいね」と仰るも、講義ということで何を話すかをかなり整理されていたご様子。

(1)音と意

 音=音程。意=意味や感情。どちらにかたよってもいけない。

(2)想念があってから行動がある

 自分できちんとそう思ってから動く

  壇上の水を例に「あ」(認識する)「エビアン」(言う)であって、「あエビアン」ではない、と説明。(余談:「あエビアン」が学生さんにめちゃくちゃウケていました)

(3)感受してから発しているか

 例えばオペラなら、相手の歌を聴いて受け止めてから自分が歌っているか?

 歌舞伎だと同じ役や長く付き合っている相手役と「初めてあった」気持ちで演じられているか?「50年会っていると『初めまして』と思うのもむずかしい」と仰っておられました。半世紀ですもんね、半世紀…。

(4)範囲の話

範囲には三種類ある

1. 自分

 自分だけがすっぽり入る筒か、球体のような範囲

2. 見えている範囲

 見えているもの、どんなに遠い水平線でも見えていたらそれは2。

3. 見えない範囲

 想像するもの、さっき見たけれど今は後ろにあって見えないもの、など

 

この説明を念頭に、後半のワークショップを聞いてくださいね、とのお話。

「40分しゃべらないと行けないんだけど」ワークショップに重点を置きたい、と30分ほどで1部終了。

(退場されたときに、一度はけて、そのあともう一度ひょっこり顔を出していたのが可愛かったんですけれどなんですかあれはファンサですか(あっ理性が…))

 

2部 ワークショップ

2部はオペラの重唱の動きを指導するというもの。曲目は

プッチーニ蝶々夫人』より「花の二重唱」

・『夕鶴』より「こんなにやせてしまったわ ~ さよなら 」

の二組。なぜこの2曲なのかな、と思いましたが、着物だからか、と歌い手さんが出てこられて気づきました。

f:id:andantepresto:20190930220121j:plain

蝶々夫人

ピンカートンの帰国を喜んで、蝶々夫人と侍女のスズキが部屋を花で飾り付けるシーン。

花を撒くところで「その花はどんな花?」「花が落ちたところまで見ている?」「花を撒いたらどれだけ美しくなったの?具体的に、過去の経験から(感情を)思い出してみて?」「(花で思いつかなければ)クリスマスでもいいから」と、いかに何もないところに本物が見えて、感じて、芝居をするか、という指導。

この花を撒くシーンて、プロの演奏を見ていてもちょっと不思議な感じがしてしまうのですけれど(花、生けるんじゃなくて撒くの?雑…と初めて蝶々夫人を見たときに思いました。海外の戯曲ですから仕方ないのでしょう)、歌い手がきちんと「ああ綺麗になったわ」と思うだけで違和感が取り払われるのが、凄いなと見ていて実感。

また、プッチーニ節な半音に、蝶々夫人は切なさ(しかし根本的にはピンカートンが来ると信じている幸福)、スズキは待っていた3年間の苦しみのことをどこか思い出している、その感情を乗せたときの舞台としての奥行きの変化。蝶々夫人とスズキの感情が少しかみ合わないところを作るだけであんなに舞台に立体感が生まれるのだな、と。二人とも歌っていない瞬間なのに。いや、だからこそ、なのかもしれません。

指導でなるほどと思ったのは、スズキの感情の解釈が、玉三郎さんが例に仰ったのと歌手の方の解釈が異なっていたとき、あくまで歌手の方の解釈を変えずに「ではその中のこの感情をここに載せてみては?」と導かれていた点でした。

「あまり歌うと喉をやっちゃうから」と、歌わずに演技だけ稽古したときの、歌がないのにきちんと物語が描かれる様子に息を呑みました。「歌う真似もしてはだめ、イメージが飛んじゃうから」と。それを経て最後に歌を入れたときの、空気の変化たるや。素晴らしかったです。

「夕鶴の方がつっこみが多いのでこちらは短めに」と仰って始まったものの、結果がっつりと指導されていました。歌い手さんたち、たくさん宝物を受け取って帰られただろうなぁ。

『夕鶴』

つうが最後の一反を織り終えて、与ひょうに別れを告げるシーン。

夕鶴は与ひょうの台詞少なくてほぼつうの台詞だったので、与ひょうさんはたびたび「楽にしてて、そういう役だから」とお暇が出ていました笑

つうは声量のある人だったのですけど、まず楽譜通りpとかmpをきちんと、と直しただけで物悲しさ切なさが溢れる音楽に。声量がある人が作るpの美しさを感じました。

範囲の話の、2、相手に対して、ではなくて、1、独白、自分に対して語る、はたびたび指導が。3は難しそうと思ったけれど、意外に1も難しいのだなと。具体的な対象(与ひょう)に訴えかける方が易しい。でも1ができた瞬間、ぐっと空気が変わる。直接的でない方が、空間にひたひたと悲しみや切なさが伝わっていくようでした。素晴らしい歌手の作る高音でのpやpp、どうやるとあんなに繊細に描けるのだろうと思っていたのですが、1や3の感覚がとてもヒントになりそうです。

つうは半透明なの」というのが衝撃的に印象に残ったコメント。人である与ひょうはとても直接的で、つうに対する台詞もずっと2。でもつうは、与ひょうに直接言うのではなくて、1だったり、(3だったり、もあったかな?)、それは彼女がひとではないからで、2が極端に少ないことで、ひとでない雰囲気が増すのか、と指導を見ていて感じました。

同時に、玉三郎さんがひとでないものを演じているときに感じる不思議な雰囲気も、1、2、3の使い分けから来ているのかな…と。

声は方向性がわかりやすい楽器なので範囲の話(自分、見えている対象、見えていない対象)を理解しやすいけれど、あれを器楽に置き換えるとどうなるでしょうか。管楽器も息があるので同じ感じで捉えられそうかな。では鍵盤楽器ならば…?

などとぐるぐると思いを巡らせながら帰路についた一日でした。

音楽に取り組むときのヒントを沢山いただけました。素敵な講義をありがとうございました。

20190512坂東玉三郎京丹後特別舞踊公演@京都府丹後文化会館

f:id:andantepresto:20190515122847j:image

はるばる京丹後まで行ってまいりました。どの曲も素敵ですが、雪と鉤簾の戸が特に好きでした。曲解説の入ったパンフがもらえるので、振り付けの内容理解にとても助かります。

口上

シルクロードと京丹後の絹とを繋げるお話。
アンティークの絹の絨毯を手に入れられたそうで、金色に輝くシルクを不思議に思っていたら、よい桑を食べた蚕が吐く糸は金色に光るのだと京丹後に来て聞いたというお話など。
あちらで見た文様がどう変遷して日本の文様になったのだろうと思いを巡らす様など、こころはいつも歴史を辿っていらっしゃるのだなぁ、と。

拝見するのは3度目の「雪」、踊りの流れがわかってきて、回を重ねるごとに楽しみが増えます。どの瞬間を切り取っても美しい形の連続でため息…。
着物を払うと、零れ落ちる雪が見えるよう。その払う指先も美しい。
傘を思わず取り落とし、恋人を追い掛ける姿にはっと引き込まれます。哀しみの中で見送る表情。

鉤簾の戸

癪に嬉しき~からの艶っぽさ。相手の恋人は仁左様で幻影が…(*´-`)
癪を押さえてくれる男の手と自分の手が重なって、何も言わず二人で蚊帳を吊り、って…

f:id:andantepresto:20190515183615j:plain

子供は見ちゃいけないやつですね…意味を聞かれたら困るやつです。
銀地に三日月のが描かれた団扇が、角度によっては橙色の照明が反射して金色のお月様にも見えて美しいです。効果を狙ってのことか偶然かはわかりませんが。

黒髪

お姫様のかんざしで登場、はっと驚きました。もとは辰姫の話ということでお姫様のなりにしたのでしょう。衣裳は落ち着いた淡い桃色。
普通は芸者の姿で踊ることが多いらしいです。
見た目は可愛らしいのですが、切ない曲。かなしい。

由縁の月

打ち掛け、背に月の刺繍が印象的でした。
苦界と思っていたけれど思わぬ人に見受けされてしまい、愛しい人にも会えなくなって…と、美しい詞に哀しい曲。
昔を思い出すときだけ少し華やぐ表情が、また切なさを増します。

カーテンコール1度目、上下(かみしも)への一礼が下手に向いたとき、少しほっとしたような笑顔が印象的でした。
由縁の月の衣裳そのままに、その姿を見られるというのも嬉しい。
2度目のカーテンコールでは、後半哀しい曲が続いたなという心を見透かすかのように、傾城が打ち掛けを見せるときの斜めの立ち姿を決め、客席からどよめき。
夕霧の、傾城としての格がじわじわと滲み出る姿。本当に美しくありがたく。幸せなひとときでした。ありがとうございました。

f:id:andantepresto:20190515123049j:image

その他メモ

  • 行・帰りに峰山駅⇔会館の送迎バスあり。満席でもわりとすぐ次が来るので助かります。
  • 帰路、高速バスなら予約したほうが吉。
  • 帰路の丹後鉄道は自由席でも座れます。天橋立駅で立ち客が出る感じ。乗り換え後の特急も自由席着席OK。隣席が空く程度に余裕。
  • 会場の椅子は横幅狭め。1列目から舞台への距離は広め。
    f:id:andantepresto:20190515123127j:image
  • スーツケースは会場で預かってもらえる模様。
  • 会場付近はコンビニなし、駅から10分くらいのところで離れている
  • 唯一の食事処は去年は満席でお昼難民になったので、今年は別の駅近くで事前に食事を済ませました

グッズ販売・食べ物など

  • 和久傳さん、玉三郎さんを題材にした絵のポストカード108円(かな)
  • 大福120円、焼き菓子(ケーキ?みたいな)もあり
  • パパイヤ茶1000円、おまけであさりのちりめんチャームをもらいました
    f:id:andantepresto:20190515122951j:image
  • 玉三郎さんグッズ諸々。ソックス700円は京丹後が最初の発売?
    f:id:andantepresto:20190515123005j:image
    f:id:andantepresto:20190515123255j:image

  • 玉三郎さんの家紋入りの反物、白地のものは好きな色に染められるらしい
    f:id:andantepresto:20190515123028j:image
  • 今年はなんとちりめんのチケット、玉三郎さんの家紋入りの生地。松竹で買ったひとも会場でちりめんのチケットに変えられました。こういう心遣い、とても嬉しいです。
    f:id:andantepresto:20190515123244j:image

2019/5/6松之丞さん独演会@もみじホール城山

地域の会館系だったので、6~7割が講談初めてのお客様でした。
見たことがない人に手を上げてもらったあとに
「実は目が悪いんで(眼鏡をかける)もう一度手を上げてください」というオチ付き(笑)(本当に見えなかったのか、どうなのかしら?)
城山ホールで講釈台を作ってくださったそうなのですが、それを忘れてご自身のを持ってきてしまったとか。だから関東なのに大きなスーツケースだったのですね…(偶然、帰路に遭遇)

f:id:andantepresto:20190507004115j:plain

鮫講釈

最初の蒲鉾の話はどこへ?と思っていたら最後にきちんと回収されていました。なるほど。実話がもとになっている(らしい)というのも面白いです。蒲鉾にされたくないよね、鮫も。
劇中劇のように挟まれる講釈が時代やら登場人物やらがごちゃ混ぜのでたらめで「お若けぇのお待ちなせぇやし」と言ったのが弁慶!!!だとか、吹くしかないですw ←ココは歌舞伎見てなかったらピンと来なかっただろうなぁ。

鼓ヶ滝

絵本化予定だとか。元の句にいかにも直してくださいと言わんばかりの箇所があるのでおや?と思いましたが、誰も死なず悪人はおらず教訓的、絵本にぴったりですねぇ。鼓ヶ滝は現存しないというのがざんねん、見てみたかったです。
(絵本化計画中の)講談社の社名がまさに講談から来ているとは知らなかったです。あと、タンポポが昔は鼓草と言っていたことも知らず。なぜタンポポなのかと思ったら、意味があったのですねぇ。

扇の的

初めて松之丞さんを拝見したときに聞いて、また聴きたいと思うきっかけになった演目。講談はじめての方が多かったので、これがかかる気がしてました。でも2回目でも楽しい。与一16歳をどの役者さんで想像しようかな~とか思いながら拝聴。(まず幸四郎さんで妄想、16歳ならと思い染五郎くんにしてみるなどw烏帽子いいですよね烏帽子)

怪談乳房榎

歌舞伎にもなっている落語が原作の話。全部読むと2時間半かかるところをぎゅっと詰めて45分(?)で。脅す磯貝、脅されるおきせや正介の雰囲気。ポイントが絞られて面白かったですが、長いバージョンでも聞いてみたい気がしました。
それと歌舞伎版も見てみたい想いがつのり。2年前の松竹座、あの頃に遠征する勇気があれば…。うわばみ三次は歌舞伎のオリジナルキャラなのですね。
圓朝さんが作った落語には『牡丹燈籠』『文七元結』『芝浜』『真景累ヶ淵』と、歌舞伎にもなっている作品が沢山あることにもびっくり。名人過ぎて自分が得意な演目を先にやられてしまう嫌がらせを受け、他の人にやれないものを、と新作落語を沢山手掛けたという話も、すごいなぁと。


講談を4席も一度に見たのは初めてで、
「多けりゃいいってもんじゃないんですよ(by松之丞さん)」
の言葉通り、休憩前の3席目で少し集中力が切れました。木挽亭だと短いトーク+長めの講談を2席(休憩なし)、のペースに慣れていたのもあるかも。でもやはり4つの話をすべて松之丞さんで聴けたのは楽しかったです!今回の会場はちょっと遠かったですが、独演会、また行きたいです。

そしてサイン本もゲット(^^)木挽亭だと物販ないのでこういうのは初めてでしたが、会館とかの独演会だと普通にあるものなのでしょうかね。

2019年 四月大歌舞伎@歌舞伎座

昼の部

平成代名残絵巻

新版歌祭文 座摩社・野崎村

寿栄藤末廣(鶴亀)

そして扇子が確かに多い演目↓ 華やかで楽しいです。好き。

 

鈴ヶ森

菊五郎さんの爽やかな前髪。最後に吉右衛門さんの伴随長兵衛が登場したときの待ってました感。どこからどう見ても頼れる親分。男が惚れる男。格好良い。この二人のやりとりは最後だけなので短いのですよね!もっと見ていたいです。

国宝が居並ぶのを見るための演目。前に南座で見たときも立ち回りが長いなと思ったのですが、やはり同じ感想。もう少し短くしては駄目なのかしら?

夜の部

実盛物語

①回目

②回目

③回目

黒塚

①回目

②回目

③回目

二人夕霧

しかしやはり、実を言えば吉田屋が別にそんなに好みではない(伊左衛門さんなんもしないのに大団円なんだもの)のもあって、それのパロディなので…うーん、という印象でした。これは完全に好みの問題ですねぇ。