お芝居つれづれときどき音楽

歌舞伎のこと、音楽のこと、いろんなこと、気の向くままによしなしごとを。

2017年8月納涼第3部「野田版 桜の森の満開の下」@歌舞伎座

(8/16:解釈と、オオアマの冒頭の拵えについて追記)

2度、「桜の森」に迷い込んできました。七之助さんが美しく恐ろしい。そして独特の不思議な世界観。ストーリーがあるようでない、ないようで有る、そんな印象。曖昧なものは曖昧なままに。強烈なものはより強烈に。

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これはいい席で見るべき作品なのかもしれません。1度目は幕見の4階で見てみて、いいけれど大絶賛するほどの理由はわからずに、2度目は1階席で見たところ冒頭から強い没入感。見終わった後の、どこか心が連れて行かれてしまった感覚。大絶賛の評を理解。わたしは持たぬ約束を、持っていた錯覚さえおぼえました。冒頭にあの満開の桜の花がきちんと見えるのが大きいのでしょうか。原作も読みイヤホンガイドも借りた2回目は、初見と状況は真逆ですが、そのためかというとそうでない気がします。 舞台から溢れて迫り来る世界を感じられる距離感か否かにかかっているよう。幕見で見たときは1階の十分の一も百分の一も感じるものが少ないのです。これから見るという方には、高いですが、思い切って1等をおすすめしたいです。

さて感想というより感じたことの羅列ですが、以降、ネタバレありにするので未見の方はそっ閉じで…

 

夜長姫はその子供っぽい残忍さを示すように、絶えず足をぶらぶらさせている。子供っぽさと残忍さ。こどもは残酷だ、という誰かの言葉を思い出す。無邪気ゆえに残酷。夜長姫の狂気が、狂喜が怒濤のように襲ってくる。空恐ろしく美しい。この人の狂気をいつまでもいつまでも見ていたい。下り坂をとこしえに下り続けていたい。スピードの上がってゆく自転車に震えながらもそれを降りずに、荷台から地獄が転がり出ようとも、この体が耐えきれずにばらばらになろうとも。
耳男はそう思って夜長姫についてゆき、しかしはっと、この世界が持たないと思ってしまったのでしょうか。狂喜に魅入られて、けれど滅ぶのは自分だけでないと知ったとき、違う決意をして行動を起こしたのでしょうか。
七之助さんでなければできない舞台では、と感じます。他の人を思い付かない。新作歌舞伎がどの程度再演されるものかわかりませんが、代表的なお役となるのではと勝手な予感。

 

オオアマを見ながら天魔王をやった染五郎さんを思い出しました。少し役としての気質が似ている、つくづく酷い人(役が)。悪い役、それも高貴な悪い役が似合う。悪い顔が似合う。ただ、悪い役だとよけいに喉に負担がかかりそうな声音をするのが心配。あの声好きなんですけどねぇ。そしてやはり、他人に演出されるとこの方の格好良さは輝くのだなあ。野田さんありがとうございます。

オオアマがイルカ背負って出てくるの、一瞬、蘇我入鹿とひっかけているのかと思ったけど入鹿はもう少し前の時代、しかも政変で殺される方だから違いますね。単に大海人皇子(オオアマノオウジ)⇒海⇒海豚っていう連想ゲームでしょうか。

⇒間に天智天皇を入れないといけなかったんですね。蘇我入鹿を政変(乙巳の変)で殺した中大兄皇子天智天皇)が崩御して、その子供からクーデター(壬申の乱)で政権を奪う、天智天皇の弟、大海人皇子。だからオオアマは入鹿を背負って、奪われたものを奪い返す図。歴史を見直してようやく腑に落ちました。

 

国盗りに鬼狩り。今度は染五郎さんが狩る側で、勘九郎さんが狩られる側か、と阿弖流為を思い出しながら。姫を殺すのは勘九郎さん。神ではないが神殺しに似たぞっとするものがつたうのは、夜長姫のキャラクターゆえでしょうか。ひとなのにひとでないような気質。夜長姫の声音が変わるところなどは、阿弖流為の立烏帽子が正体現しをする場面を思い起こさせます。夜長姫はほんとうに七之助さんにぴたりとハマっている。あの空恐ろしさがあるからこそ、殺しの場面がはっきりと浮き立つ。

ヒダの国は飛騨の高天原伝承が発想の元らしいです。原作の坂口安吾さんが飛騨フリーク(違)だったらしい byイヤホンガイド。詳しくはgoogle先生に…。

 

猿弥さん素晴らしい。コミカルな場面もシリアスも、舞台を支配する力のある役者さんだなぁ。ただ時おり、早口で叫びすぎて聞き取れないのが惜しい。

とあるシーンで猿弥さんにあたる棒が跳ね返って他の役者さんに当たってしまったときの「大丈夫か!?」のアドリブはさすが。そのあと「本当に大丈夫か?」って繰り返してたのも笑いを誘って上手でした。

エナコの志のぶさんの怪演。このひと、男性なんですよねぇ、歌舞伎だからあたりまえなのだけど、それを忘れて女性がやっているような気持ちで見ていた。

あとハンニャ!巳之助さん!少しだけ夜長姫に通ずる気質を見た気がする。なんだろう、変に無邪気なところかな。跳び跳ねる仕草も素敵。とても光っていた。

 

シリアス中心の芝居と思って見たら、ちょいちょいネタも多い。鬼退治で二人桃太郎の衣装で登場して、「なんで桃太郎が二人なんだ」「最近流行りなんだよ」とか、耳男を「中村屋!」「中村くん」て呼んだりとか。中村屋ファン的には楽しいですな(*´-`)

真面目なキャラと思いきやのっけから「堀ちえみ」とか子ネタ挟みまくりの扇雀さんがかわいいです。

 

音楽 

歌舞伎の音ももちろん入りますが、なぜか、

と、クラシックも満載。最後の曲がわからなかった(ソーラシレ ラーソシラ ソーラシレ ラシソ みたいなかんじの歌…伝わらないですね)のですが、ウェールズ語の子守歌なのだとか。

Suo Gan ウェールズ地方の子守唄(子守歌) 歌詞・日本語訳と試聴など

2回目見たときに、このメロディー冒頭の冒頭にも流れていたことに気付きました。誰に対する子守歌なのか、夜長姫か、それとも?

 

解釈と予習、イヤホンガイド

初回は久々に人と観劇したので、曖昧なものを曖昧なままに受けとる感覚が強いことに気づきました。野田さんの芝居はひとによって解釈の幅のある芝居、というコメントを見たけれど、初回はあまり解釈云々という気持ちにならず。赤坂大歌舞伎(夢幻恋双紙)を見たときは解釈というかその前後についてぐるぐると考えたものだけれど。桜の森、あれは見たあのままの世界なのでは、と(それも解釈の一つとも言えるか)。

難解な部分もあるよとか、言葉遊びというコメントもしばしば見かけたのだけど、そうだったっけ、ときょとんとしていました。言葉の裏を読まずにそのまま受け取り過ぎたのか、見落としたのか。わたしには約束がないので、桜の下でほかのひとが見つけたものを、見つけられなかったのかも、と思ったり。

そんなわけで2回目は原作を読んでから再チャレンジ。

(原作読んで、坂口安吾の独特の世界に没入できる人には好きな芝居だと思います。原作がぴんと来ない人には、この芝居もぴんと来ないかもしれません。)

図書カード:桜の森の満開の下

図書カード:夜長姫と耳男

イヤホンガイドも借りて。野田さんの鬼の解釈を興味深く聞く。体制に与しないもの。阿弖流為のことも思い出します。
舞台の時代背景や、少し解釈が必要そうな場面は説明をくれるのでわかりやすくはあります。でも概ね台詞が説明してくれていますので、ガイドは必須ではない、あるとよりわかりやすいという感じ?好むかどうかは人によるかなと。展開の早い芝居が得意だったり、芝居や本を読んでストーリーの先がある程度読めると思うなら借りなくてOK。そういうのが苦手なら借りてもいいかも。ガイドの解説で、そういう意味だったのかと初めて気づいたのは、

  1. 古代遊園地のくだり:ぐるぐる回るカニの国作り=オオアマの周りに人が集まって国ができる様子であること
  2. 古代遊園地は飛鳥地方にある遺跡が舞台(飛鳥の石造物だったか?さすがに解説されないとこれはわからない)
  3. 耳男にとっての夜長姫は芸術家にとってのミューズのような存在であること(インスピレーションの源)

の3点かな。他にもあったかもしれないが、忘れてしまった。

で、結論は、冒頭にも書いたけれど予習やイヤホンガイドの有無ではなく席のよしあし!それに尽きました。解釈の余地もなくはないんだろうけれど、1階で舞台の説得力を存分に感じたらわからないものもわかるというか、勝手に感じてくれる。そういうお芝居だったと思います。(良席で見れない場合は原作読んで独特の没入感を味わってから見るといいかもしれません。)

もう一度あの没入感に浸りたい。異質なものを感じて溺れたい。心底そう思う舞台でした。

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この作品がなんだったかということについては、安吾の言葉自身が静かに語っているように思います。安吾の『文学のふるさと』、青空文庫で読めますのでぜひご一読ください。