お芝居つれづれときどき音楽

歌舞伎のこと、音楽のこと、いろんなこと、気の向くままによしなしごとを。

20190928坂東玉三郎 講演とワークショップ@武蔵野音大

というわけで行って来ました。音楽に関連するお話を沢山伺えたので、自己研鑽のために備忘録。メモをほぼ取っていないので不正確です、ご容赦ください。

玉三郎さんは白シャツに上下黒系のスーツ姿。1部2部構成で、1部は玉三郎さんの講義(対談ではなくおひとりで)、2部は声楽の生徒さん(と言ってもほとんどが卒業生さん)がオペラのワンシーンを演じて玉三郎さんが指導するのを聴講する形式。


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1部 講義『歌と心』

『歌と心』というタイトルでの講義。「こんにちは」と仰って、きっちり会場から返事が返ってくるのが大学だなあという印象。高校生らしき制服の方も。「こんにちは」「こんばんは」の混ざる返答に「こんばんはでしたね」と言い直す玉三郎さん。

「話が飛ぶので皆さんの頭で繋げて聴いてくださいね」と仰るも、講義ということで何を話すかをかなり整理されていたご様子。

(1)音と意

 音=音程。意=意味や感情。どちらにかたよってもいけない。

(2)想念があってから行動がある

 自分できちんとそう思ってから動く

  壇上の水を例に「あ」(認識する)「エビアン」(言う)であって、「あエビアン」ではない、と説明。(余談:「あエビアン」が学生さんにめちゃくちゃウケていました)

(3)感受してから発しているか

 例えばオペラなら、相手の歌を聴いて受け止めてから自分が歌っているか?

 歌舞伎だと同じ役や長く付き合っている相手役と「初めてあった」気持ちで演じられているか?「50年会っていると『初めまして』と思うのもむずかしい」と仰っておられました。半世紀ですもんね、半世紀…。

(4)範囲の話

範囲には三種類ある

1. 自分

 自分だけがすっぽり入る筒か、球体のような範囲

2. 見えている範囲

 見えているもの、どんなに遠い水平線でも見えていたらそれは2。

3. 見えない範囲

 想像するもの、さっき見たけれど今は後ろにあって見えないもの、など

 

この説明を念頭に、後半のワークショップを聞いてくださいね、とのお話。

「40分しゃべらないと行けないんだけど」ワークショップに重点を置きたい、と30分ほどで1部終了。

(退場されたときに、一度はけて、そのあともう一度ひょっこり顔を出していたのが可愛かったんですけれどなんですかあれはファンサですか(あっ理性が…))

 

2部 ワークショップ

2部はオペラの重唱の動きを指導するというもの。曲目は

プッチーニ蝶々夫人』より「花の二重唱」

・『夕鶴』より「こんなにやせてしまったわ ~ さよなら 」

の二組。なぜこの2曲なのかな、と思いましたが、着物だからか、と歌い手さんが出てこられて気づきました。

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蝶々夫人

ピンカートンの帰国を喜んで、蝶々夫人と侍女のスズキが部屋を花で飾り付けるシーン。

花を撒くところで「その花はどんな花?」「花が落ちたところまで見ている?」「花を撒いたらどれだけ美しくなったの?具体的に、過去の経験から(感情を)思い出してみて?」「(花で思いつかなければ)クリスマスでもいいから」と、いかに何もないところに本物が見えて、感じて、芝居をするか、という指導。

この花を撒くシーンて、プロの演奏を見ていてもちょっと不思議な感じがしてしまうのですけれど(花、生けるんじゃなくて撒くの?雑…と初めて蝶々夫人を見たときに思いました。海外の戯曲ですから仕方ないのでしょう)、歌い手がきちんと「ああ綺麗になったわ」と思うだけで違和感が取り払われるのが、凄いなと見ていて実感。

また、プッチーニ節な半音に、蝶々夫人は切なさ(しかし根本的にはピンカートンが来ると信じている幸福)、スズキは待っていた3年間の苦しみのことをどこか思い出している、その感情を乗せたときの舞台としての奥行きの変化。蝶々夫人とスズキの感情が少しかみ合わないところを作るだけであんなに舞台に立体感が生まれるのだな、と。二人とも歌っていない瞬間なのに。いや、だからこそ、なのかもしれません。

指導でなるほどと思ったのは、スズキの感情の解釈が、玉三郎さんが例に仰ったのと歌手の方の解釈が異なっていたとき、あくまで歌手の方の解釈を変えずに「ではその中のこの感情をここに載せてみては?」と導かれていた点でした。

「あまり歌うと喉をやっちゃうから」と、歌わずに演技だけ稽古したときの、歌がないのにきちんと物語が描かれる様子に息を呑みました。「歌う真似もしてはだめ、イメージが飛んじゃうから」と。それを経て最後に歌を入れたときの、空気の変化たるや。素晴らしかったです。

「夕鶴の方がつっこみが多いのでこちらは短めに」と仰って始まったものの、結果がっつりと指導されていました。歌い手さんたち、たくさん宝物を受け取って帰られただろうなぁ。

『夕鶴』

つうが最後の一反を織り終えて、与ひょうに別れを告げるシーン。

夕鶴は与ひょうの台詞少なくてほぼつうの台詞だったので、与ひょうさんはたびたび「楽にしてて、そういう役だから」とお暇が出ていました笑

つうは声量のある人だったのですけど、まず楽譜通りpとかmpをきちんと、と直しただけで物悲しさ切なさが溢れる音楽に。声量がある人が作るpの美しさを感じました。

範囲の話の、2、相手に対して、ではなくて、1、独白、自分に対して語る、はたびたび指導が。3は難しそうと思ったけれど、意外に1も難しいのだなと。具体的な対象(与ひょう)に訴えかける方が易しい。でも1ができた瞬間、ぐっと空気が変わる。直接的でない方が、空間にひたひたと悲しみや切なさが伝わっていくようでした。素晴らしい歌手の作る高音でのpやpp、どうやるとあんなに繊細に描けるのだろうと思っていたのですが、1や3の感覚がとてもヒントになりそうです。

つうは半透明なの」というのが衝撃的に印象に残ったコメント。人である与ひょうはとても直接的で、つうに対する台詞もずっと2。でもつうは、与ひょうに直接言うのではなくて、1だったり、(3だったり、もあったかな?)、それは彼女がひとではないからで、2が極端に少ないことで、ひとでない雰囲気が増すのか、と指導を見ていて感じました。

同時に、玉三郎さんがひとでないものを演じているときに感じる不思議な雰囲気も、1、2、3の使い分けから来ているのかな…と。

声は方向性がわかりやすい楽器なので範囲の話(自分、見えている対象、見えていない対象)を理解しやすいけれど、あれを器楽に置き換えるとどうなるでしょうか。管楽器も息があるので同じ感じで捉えられそうかな。では鍵盤楽器ならば…?

などとぐるぐると思いを巡らせながら帰路についた一日でした。

音楽に取り組むときのヒントを沢山いただけました。素敵な講義をありがとうございました。