お芝居つれづれときどき音楽

歌舞伎のこと、音楽のこと、いろんなこと、気の向くままによしなしごとを。

20180716蓬莱竜太の劇世界@新国立劇場 小劇場

「蓬莱竜太の劇世界」と題されたトークイベントを拝聴してきました。新国立の小劇場が満席で人気の高さが伺えます。
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「消えていくなら朝」のセットを前にトーク。初めはその「消えていくなら朝」の話から。家族というテーマを選んだ理由について、その話をもらうまでもかなり忙しく、歌舞伎を最後にテーマが枯渇する計算で唯一残っていたもの、差し出せるものがこれしかなかった、と蓬莱さんは仰っていました。『差し出せるもの』。苦しんで書くものの方がいい舞台になると感じていて、そうやって書けるテーマの最後だった、ということらしい。(枯渇したあとの充電のしかたは気になるところでもあります)
演劇ジャーナリストの徳永京子さんが司会(講師)。その突っ込んだ分析、容赦がなくて面白かったです。蓬莱脚本の「うまさ」を取り上げて、脚本のコツ(ポイント?)はなんですか?と問い、蓬莱さんが様々な人物の視点から描くこと…というような答えに「多くの劇作家の方がそう言います。うまい答えじゃないです」的な返しに会場笑。
では蓬莱脚本のうまさは何か?分析を徳永さんが披露。主役に対抗する悪と信じていた登場人物が最後にひっくり返されて、そちら側の正義や事情が明らかになること、その正義が99%どうしで拮抗して、決してどちらかが100%にはならないこと、と表現していて、なるほど、と。こうだと思って乗っていた乗り物が違っていた、とは蓬莱さんの言葉だったでしょうか。言われてみれば赤目の転生もそういう構造でした。ミスリードに裏切られて、真実がわかるまでは違和感があった行動に全て綺麗に理由が付いて行く驚きという、一瞬にして視界が変わる快感。そこに面白さがありました。「そのうまさがあるので外からの仕事がたくさん来て、早い段階で脚本の仕事だけで食べていけるように…」的に仰る徳永さん(笑)。
劇場を出たあとも(物語のことを)考えてほしいと思っている、と蓬莱さん。赤目を見たあとはまさにそれで、ひとりで見た日は延々と考え続けたし、人と見た日はそのひとと終演後にあれこれ話したなぁと。まんまと作家の意図にハマっていたわけです。
徳永さんが蓬莱さんの仕事を中(劇団、モダンスイマーズ)と外(から依頼される仕事)に分けていて、劇団での仕事を「うまい期」「低迷期」「(第3期の命名を失念、それも面白かったのだけど)」と評していたのがおかしかったです。低迷と言っちゃうのですか!第2期は実験的なことを次々とやっていた時期らしく、蓬莱さんご自身は「混迷していた」と表現。(外向けは2期に分けるそうですが詳細は失念。低迷期も外向けにはヒットを飛ばしていた的な説明だったような?)その「低迷期」を抜け出すきっかけの事件(明らかな不利益)を蓬莱さんが赤裸々に語っていて、それ言っちゃうの!?って。でも、それがあって本当によかったと思ってらっしゃるのも伝わってきて、人生何があるかわからないなぁと。
ところで、新国立での上演作品で描いた人間像を蓬莱さんが「醜い、浅ましい」と表現した、その言葉の選び方が劇作家だなぁと。文章を書く人の、日常会話に普通は出てこない言葉が口にのぼるのを聞くのが結構好きです。日常で「浅ましい人だ」なんて言わないですからね。
2013年から始まる三部作から意図的にセリフのフィクション度を下げた、という話をされており、だからこそ「悲しみよ、消えないでくれ」を見て、過去の苛立ちを思い出して苦手だったのだな、とも。リアルな芝居への拒絶感を強く自覚させられた作品でした。現実に向き合い過ぎた時期があったからかな。リアルには救いがないことがたくさん転がっているので、フィクションには救いやうつくしさを見出したいのかも。
ただ、話を聞いていて7/20から始まる「死ンデ、イル」は少し見てみたい気になりました。あの震災がきっかけになって生まれた作品はどういうものなのか、ということと、ひとりの人間の失踪、不在によって生まれる物語であるという点に惹かれるようです。「やはり苦手だった、」となる可能性もあるので迷いましたが、結局チケットを購入。
ところで徳永さんによると、ストレートプレイよりも自然な口語の現代口語演劇、というジャンル?があるらしく、ストレートプレイ=口語だと思っていたので少し面食らいました。つまるところ「芝居がかった台詞」を排する、ということみたいです。歌舞伎が、演劇改良運動の流れで見得のような大仰さや鬘・衣裳の荒唐無稽さ、そして歌と踊りをも排していった過去があると聞きますが、対してごくごくシンプルに普通に見えるストプレもさらにそこから芝居を抜いてゆく。静かな演劇、と仰っていたかな。では、それをわざわざ舞台上に上げて見る理由とは?いったいどんなものなのか、気になります。
しかし、これ以上演劇論的なものを理解するには知識も観劇経験も足りないので、まず今日はこれぎり。