お芝居つれづれときどき音楽

歌舞伎のこと、音楽のこと、いろんなこと、気の向くままによしなしごとを。

201807 死ンデ、イル。(B)@東京芸術劇場イーストシアター

恐る恐る、見に行ってみました。

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結末の突如ポジティブな方向への転換は少し無理矢理に感じました。お芝居における主人公の絶望(というと大げさかもしれない)の時間が長いからでしょうか。99%がつらい時間で、最後の1%で力を勝ち取るというような。強い飛躍。しかし前作(「悲しみよ、消えないでくれ」)よりは苦手さは少なかったです。それは結局、その無理矢理なポジティブさのおかげかもしれません。チラシをよくよく見ると白抜きで「光れ。」と書いてあり、印象的な中央のタイトル「死ンデ、イル。」の方に目を奪われがちですが、「光れ。」にポジティブな結末は暗示されていたのかもしれません。
最後の最後の場面にすべてを集約させて、作者はこの絵が見えていたのだろう、もしくは描きたかったのだろうな、と思わせるところは「悲しみよ、~」と少し構造が似ています。

初めは、胡散臭いルポライターを嫌なやつだと思い、色々と炙り出されるうちに(見ている自分の)嫌悪対象が変わってゆき、最後にまたぐるりと戻るのが面白かったです。結局みな、触られたくない後ろ暗いことがある。というか、明確に後ろ暗いのは男たちばかりですね、そう言えば。対になる女性たちはただただそのことに怒っている。炙り出されるうちに「自分のあの事も聞かれるのでは」という素振りを誰も見せないのが少し愚かですね。自分は抉られないという自信はどこからくるのか。ただ愚鈍なのか。
お姉さんの旦那の行動が気持ち悪くてどうしようかと思ったのですが、ひとつ勉強になったことは、男は本当に酔ってるとは限らない「酔ったふりもする」生き物だということ。(酔ったからって緩みやがってコイツうっとうしい…)、などと手心を加えずに、迷わず蹴り上げていいんですね、よーし、覚悟しとけよ。

さて意外なほどに「悲しみよ、消えないでくれ」で見た役者さんの顔を覚えていました。TVも含めて役者さん、というか人の顔が覚えられないのですが、あの小さい空間で濃密な時間を見届けると嫌でも1回で覚えるらしい。(べつに嫌ではないの、言葉の綾)
ルポライターも体育の先生も叔父さんも、どこか前のキャラクターと共通項がある気がしてきます。先入観か、やはりひとりのひとが醸し出す雰囲気を全く変えるのは難しいのか。真逆なキャラではないですからね。
ルポライターと叔父さんがWキャストで、私が見たのはBパターン(ルポライター:小椋毅、叔父:古山憲太郎)だったのですが、この作品、B見るとAも見てみたくなりますね。逆も然りでしょう。演者が変わることでキャラクターは変わるのか変わらないのか。気になって仕方ないです。

ひとつだけ、最後に明かされる七海の姉の行動の心理が理解できませんでした。「失踪の理由が綺麗すぎる」から書き置きを秘密に?意味がよくわからなかった。夫のこと、ほんとうのことを炙り出したかったとか?しかしそうも思えないしなぁ。全て嫌になって妹にいなくなってほしかった、とか、こんな理由でいなくなった妹が許せなくなった、とかの方がしっくり来るかも。

脇にそれるけれど「叫ぶのは呪い」というのがちょっと意外な見解。叫びはエネルギーを消費してゆくので呪いにはならずにすり減ってゆく気がして。あるいは緊張やストレスを破るもの。発散するもの。呪いは、もうすこしどろりと溜まってゆくものな気がします(完全に感覚的な私見)。まぁ、叫び続けたら溜まっていくのかもしれません。

ちなみにアフターイベントの朗読つきの日。前作は朗読も込みで物語が完結した印象を受けましたが(朗読なしだとどういう気持ちで見終わるのだろう)、今作は一度きちんと作品が終わり、あくまで後日談に見えたのがよりよかったです。前回の朗読もかなり好きでしたけども。絵本を後日談になぞらえて見せる手法はかなり面白いです。童話のチョイスがまた上手いのです。うまくハマる童話をどうやって探してくるのでしょう。

最後に。
口悪いし拗ねてて愛想ないけど、なんだかんだ言って実は徐々に心を砕くようになっていそうな叔母さんが最後には結構好きになっていました。
しかし先生、後日談(朗読)で家に来てたけど、さすがに来れなかろうよ?そこはまぁ、いてくれないとね、小さなHappyEndの締まりがよくないからね。

あ、あと。芝居中ずっと高校生にしか見えなかった七海役の方が、カーテンコールに立った瞬間おとなの女性に見えてはっとしました。21歳だそうだから役に近い年齢ですけど。まだ高校時代の記憶はリアルな手触りとともに持っているのでしょうねぇ。